2010年10月10日更新ガゾーン > 都市の景観 > 北九州・小倉 >自動車の目: 小倉南口(2010年版) 直リンク | 動画解説自動車の目: 小倉南口(2008年版) 直リンク | 動画解説自動車の目: 小倉南口(2007年版) 直リンク | 動画解説深夜2時の小文字通り、堺町公園界隈 2003年1月小倉は旧城下町だから碁盤の目の街路を持つ。明治維新から20年後の1887年の地図によれば、当時の市街地は長崎街道に沿って、小倉城を取り囲むように、東の天神島、北の室町、西の大門・田町あたりに広がる。この範囲は現在の北九州都心部とほぼ一致する。関門海峡を埋め立てた小倉北口はまだ存在しない。明治から太平洋戦争の終結まで小倉城内には小倉陸軍造兵廠という軍事施設があった。造兵廠は小倉を軍都として発達させたが、都心部の一等地を広く囲ったため、面的な市街地の形成を阻んだ。米軍が原爆の投下目標として通常爆撃を禁止し、問題の原爆は曇天により中止となり、小倉は先の戦争で焼け野原にならなかった。都市基盤を失わなかった小倉は戦後すばやく復興して、1970年代まで西日本最大の商都として繁栄を謳歌した。都市計画の観点からいえば、古い都市基盤を近代化させる機会を逸した。八幡などが戦災復興計画により上質な都市基盤を築いたのに対し、小倉では明治からの狭い街路と、小さな街区、無数の権利がそのまま残った。この小倉が北九州の都心になったのは不幸だった。小倉は街路が狭すぎる。町割りが小さすぎる。地権者が多すぎる。道路を広げようにも、再開発しようにも手に負えない。せめて旧城下町らしい情緒があればよかった。顔となる小倉が貧弱きわまりないものだから、北九州全体の印象が損なわれる。小倉南口の主要幹線道路は南北の平和通りと浅香通り、東西の勝山通りと小文字通りがマルペケゲームのように交差する。勝山通りが繁華街の中心、小文字通りが歓楽街の中心だ。平和通りには個人客相手の支店・営業所が集まり、小文字通りや浅香通りには法人客相手の支店・営業所が集まる。平和通りは上空をモノレール線が通る。モノレールは1998年以前は平和通駅(当時は「小倉駅」)が終点だったため、道路上空に約200mに渡って駅舎構造物が覆い被り、この上もなくうっとうしい。上空を建造物で覆われた平和通りは昼間でも薄暗く、目抜き通りの華やかさがない。撤去する案は
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